聖書図鑑 「酒ぶね」
聖書の中で頻繁に出てくる単語の一つに酒ぶねというものがあるが、
聖句では以下のような表現がある。
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに、わたしと事を共にする者はなかった。わたしは怒りによって彼らを踏み、憤りによって彼らを踏みにじったので、彼らの血がわが衣にふりかかり、わが装いをことごとく汚した。
主はわたしのうちにあるすべての勇士を無視し、聖会を召集して、わたしを攻め、わが若き人々を打ち滅ぼされた。主は酒ぶねを踏むように、ユダの娘なるおとめを踏みつけられた。
そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
「酒ぶねを踏む」とか「怒りの酒ぶね」とか表現されている。
果たして酒ぶねとは一体どんなものか、調べてみた。
図としてはこんな形状のものである。
その先には、幾つかの液槽が掘られてあり、ぶどう液が狭い隙間を通って次から次へと流れていくうちに、次第に不純物が取り除かれる仕組みとなっている。
ユニークなのが、当時では足でぶどうを踏み潰して、ぶどう液を搾り出していた。
当然、血のように赤い汚れが足元や衣のまわりについただろう。
人々が間違ったら、神様は愛ゆえに、裁くのだ。
箴言 / 13章 24章
むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。
それは主の再臨が差し迫っていることでもある。
考えない人には、これほどの兆候を見ても、わからず眠っているのと同じだ。
今は眠っている時ではない。
思慮深い花嫁のように目を覚まし準備して備える時ぞな。
でなければ、主の怒りの酒ぶねの中に投げ込まれてしまうゾナ。
聖書の人物から学ぼう! 「ヤコブ 祈り」
ヤコブについての物語はたくさんある。
その中でも特筆したい気質があるとすれば
それはヤコブは「祈りの人」であったということだろうか。
ヤボクの渡しという場所での有名なエピソードがある。
http://www7.wind.ne.jp/azarashi/delacroix/images/i-images/i-jacob.html
ヤコブが神の使いと相撲をとったといわれる場所だ。
相撲の起源は、聖書からという説もあるのは、この箇所からだ。
もしかすると日本の国技はイスラエルの歴史を伝承することから
生まれたのだとすると実に興味深い。
さて、本題だが
ヤコブは兄エサウから長子の特権と父の祝福を奪った手前
エサウから命を狙われることになり、その故郷を捨て、旅立つことになった。
ずっと天幕で大事に育てられてきたヤコブにとって
突然、頼る人が誰もなく、荒野をさまようになったのだから
どれほど寂しく、将来が不安であっただろうか。
ヤコブはそんな折に夢をみた。
石を枕として野宿したときのことだ。
天にまで達する梯子があり、
天使が上り下りしている。
そこで神様がヤコブに語られた。
わたしはあなたと共にいて、
あなたがどこへ行くにもあなたを守り、
あなたをこの地に連れ帰るであろう。
わたしは決してあなたを捨てず、
あなたに語った事を行うであろう。
このシーンが有名な「ヤコブの梯子」と呼ばれるシーンである。
ちなみこんな風景のことも、ヤコブの梯子と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E6%98%8E%E5%85%89%E7%B7%9A
ヤコブは荒野でも独りぼっちではなかった。
何より心強い神様が共にしてくださると約束してくださったのだ。
いつも神様と祈りの対話をして過ごしたことだろう。
そんなヤコブが行くところで多くの祝福があり、
親戚の家で妻も娶り、また強い羊も多く率いるようになった。
そして20年の歳月が流れ、再び故郷へ戻るときが来た。
あなたをこの地に連れて帰るといった約束が成就するときがきたのだ。
無事、叔父ラバンのもとを離れ、故郷へ向かうヤコブには
一つの心配事があった。
もちろん、兄エサウのことである。
ヤコブはエサウに命を狙われていたから、故郷を離れていたのだ。
ヤコブは「ヤボクの渡し」にさしかかったとき
その持ち物も妻たちも全て先に渡らせたあと、
明け方まで、天使と組打ちしていた。(ここが相撲のシーンである)
そして
「私を祝福してください!」
と必死にすがりついたのだ。
天使もとうとう根をあげた。
「夜が明けるから私を去らせてください」
たとえもものつがいが外れても、ヤコブは離さなかった。
もものつがいとは太ももの関節つまり骨盤であり、また肉的な考えの象徴といえる。
完全に肉的な考えを折って、ひたすら神様に頼っていく姿勢が描かれているのだ。
ヤコブはこのとき、「イスラエル」という名をさずかった。
ここがイスラエル民族の起源である。
ヤコブは人生の大河を渡る際、神様に必死ですがりつくことで、名前が変わる人生になり、一つの民族を興すにいたったのだ。
私たちも、神様に認められ名前が変わるくらい
すがって求めたことがあるだろうか?
その結果、エサウとあったときにはすでに全ての問題が解かれていた。
私たちが大きな問題に遭遇するとき、まずは神様との祈りの戦いに勝利することが
人生の全ての問題に勝利することになる。
始めは恐れの目で見るしかない状況の中でも
祈りによって、まず自分の心が変わるのだ。
神様が同行してくださるのに、何が恐ろしいことがあるだろうか。
祈りとは神様を味方にするまで、必死にすがりつき求めることを言うのだ。
私たちもヤコブのように明け方の神様との相撲に勝利し、祝福の道を歩もうではないか。
聖書図鑑 「レンズ豆のあつもの」
イサクが長子の特権と引き換えにしてまで、食べたいと思ったレンズ豆のあつものとは
一体どんなものであろうか?
そもそもあつものと言ってもピンとこない。
以下、コトバンクより
あつ‐もの【×羹】
《「熱物(あつもの)」の意》魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物。
画像検索したら羊羹とかでてきたりするが、本質的には吸い物を言うようだ。
(英語の聖書ではStewであり、要するにシチューのことだ。)
レンズ豆については
以下、Wiki参照。
西アジア原産で、コムギやオオムギ、エンドウなどと同時に栽培化されたと考えられる。
種子は丸くて扁平な形で、直径 4-9 mm。光学製品のレンズの名は、初期の凸レンズの形がこの豆の形に似ていたことから付けられたものである。カレーやスープ、煮込み料理などインド料理やイタリア料理、フランス料理では定番食材のひとつ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%A1
レンズ豆のシチューとか、レンティルシチューとかで検索すれば多数でてくるが、
イサクは、「その赤いものを私に食べさせてくれ」といったので
こんなのが一番、見た目に近いのかもしれない。
うーん確かに美味しそうだ。
といっても、数千年前の話だし、
もっとワイルドな感じで、グツグツと煮られていて
狩猟で疲れ果てた時には、長子の特権さえ
どうでもよくなるくらい美味しそうだったのだろう。
私は昔、引越しのアルバイトで一日、重い荷物を運び続けたことがあるが
その日の仕事が終わりかけたとき、差し入れられたコンビニのハンバーガーが感動的に美味しかったのを覚えている。
極度の疲労と空腹のときには、誰だったそうだろう。
イエス様は40日断食後にも、食欲を治めたのだから
どれほどすごかっただろうか。
聖書の人物から学ぼう! 「ヤコブ 祝福」
http://cgfa.acropolisinc.com/f/p-flinck1.htm
ヤコブ
その名の意味は「かかとをつかむもの、欺くもの」
などである。
何故その名がついたかというと
彼は出生のタイミングから
兄として生まれるエサウと争いながら
生まれており、またかかとをつかみながら生まれてきたことによる。
そして彼の生涯はその名にふさわしく
様々なものを奪っていく人生を歩むことになる。
エサウは生まれたときから全身毛ごろものようで
また成長してからも野の狩猟者となったたくましい兄である。
一方ヤコブは穏やかな人柄で天幕に住んでいた。
つまり、エサウのように野外で狩猟をするのでなく
家の仕事にもっぱら従事していた、か弱い弟だった。
そんなヤコブが兄エサウを出し抜くきっかけが訪れた。
エサウが空腹で狩りから帰ってきたときのことだ。
ヤコブはいつものように天幕の中で働いていた。
母リベカからも可愛がられていたのだから、料理の腕は上手だったのであろう。
ヤコブが用意していたパンとレンズ豆のあつものが
さも美味しそうにエサウを誘惑した。
そしてエサウが欲しいといったが、ただで与えることはしなかった。
虫のようにか弱いヤコブにとって、少しでも力を得るチャンスだったからだ。
彼はエサウの長子の特権とひきかえに、食べ物を提供してあげた。
さて、長子の特権とは何だろう?
日本では、長子が家を継ぐなどの風習があるが、相続については、法定的には兄弟での優劣はない。
この時代のイスラエルでは、父の死後、一族の指導的立場を継承し、
他の子供の2倍の財産を相続できる権利であった、そのため結構、重要な取引といえる。
そして二度目の機会が訪れる。
父イサクが年が進み、目も見えなくなってきていた。
そこでイサクは長子エサウに祝福を授けることを約束した。
ただし、しかの肉で美味しい食べ物を用意してのことだった。
エサウが狩猟に出かけている間に、母リベカの指示もあり
やぎの子の良いのを2頭準備し、父イサクのために美味しい食べ物を作った。
リベカも長年イサクと連れ添ってきたのだから、どんな味が好みかも
熟知していただろう。(少なくともやぎの肉をしかの肉と思わせるくらいに)
そして毛ごろものようなエサウに似せるために
子やぎの皮を手と首のなめらかなところにつけて
見事に父イサクを欺き、ヤコブは祝福を受けることに成功した。
(イサクも声はヤコブであることを気づいていたが、
目がみえなくなっていたので毛で判断するしかなかった。
しかし子やぎの皮なみに毛深いエサウって一体・・・)
そしてエサウが帰ってきたときにはすでに時遅し、
エサウは
「わたしのために祝福を残しておかれませんでしたか」
「あなたの祝福はただ一つだけですか」
と必死に嘆願したが、
主の前で行った祝福は、やり直しはきかないのだ。
人と人との約束ではない。
主の前で受けた祝福をないがしろにしてはいけないのだ。
ところで
長子の特権においても、父から受けた祝福においても、共通していることがある。
それは条件代価ということだ。
どちらもタダでもらえるわけではなかった。
そして、準備を常にしてあったヤコブは見事に、その祝福を奪うことに成功している。
その日はいつ訪れるかわからない。
天幕の仕事を、変わらずに行っていたある日、チャンスが訪れたように、
やぎをいつでも屠れるよう備えが十分であったから、迅速に対応できたように、
私たちもヤコブのように、
日ごろから完全な備えをして
来たるべき日を迎えようではないか。
天国は奪うものの天国である!
聖書の人物から学ぼう! 「イサク 従順」
http://transact.seesaa.net/article/123781460.html
アブラハムの息子イサク、彼を表現する言葉は「従順」
それ以外に聞いたことがない。
あまり多くの記述が残されていないこともあるが、
アブラハムのストーリーを語る上で欠かせない人物である。
100歳でやっと賜った、アブラハムの最愛の息子がイサクだった。
アブラハムは到底信じられなかった状況の中、神様の約束を信じ
やっとの思いで生まれてきたイサクを、目に入れてもいたくないほど可愛がった。
しかし、その喜びが凍てつく恐怖の瞬間へと変わる時が訪れた。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、
わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい。」
信じられないような言葉が主の口から放たれた。
アブラハムはどれほど悩んだだろう。
心臓が止まるような思いがしただろう。
冗談ではないかと思ったかもしれない。
(しかし、聖書中、神様が冗談を言うシーンを私は知らない。)
彼は悩みぬいたあげく、主の言葉に従った。
イサクを連れてモリヤの地へ行ったのだ。
イサクも無邪気に
「火とたきぎとはありますが、燔祭の子羊はどこにありますか」
とアブラハムに問いかけた。
よもや、たきぎを背負う自分自身がそのたきぎで焼かれようとしているとは
夢にも思わなかっただろう。
その無邪気さがますますアブラハムの胸を締め付けたに違いない。
そしてとうとう神が示された地へたどり着き
アブラハムはその子、イサクを捧げることになった。
イサクは、父アブラハムが神様に対して絶対的な信仰を持っていることを
知っていたし、また神が望まれることであれば、わが身さえ捧げる決心をし、
アブラハム、いや、神に対して従順であることを貫いたのだ。
そして、アブラハムが刃物を執って、まさに殺そうとしたとき
天使が彼を引き止めた。そして、言った。
「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、
わたしのために惜しまないので
あなたが神を恐れる者であることを
わたしは今知った。」
アブラハムの信仰が、そしてイサクの従順が神の前に認められた瞬間である。
果たして、これらが実際にわが身に起こったときに、一体どれだけの人が
アブラハムと同じ事が出来たであろうか。またイサクと同じ事が出来たであろうか。
二人が立てた基準はあまりに大きい。
こうして、個人・家庭の基準を立てた、この親子から
祝福されたイスラエル民族の祖となるヤコブが生まれることになった。
ちなみにイサクは結婚に際しても、父アブラハムに言われたこと(カナン人の娘を妻にしてはならない。アブラハムの国の親族の中から妻をめとらなければならない)に従順した人であった。そしてその子ヤコブにも、その言いつけを守らせた。ことごとく従順という言葉が似合う人である。
(長男のエサウは勝手にカナン人の娘と結婚してたけど・・・)
ただで受けられる祝福なんてない。
神の前の絶対信仰と従順。
それはいつの時代にも私たちに問われるものである。










